盛り上がりを見せる日本
日本は世界的に見て二輪のモーターサイクルの繁栄は活況を呈していると言っていい。
古くはマン島TTレース、そして欧州を駆け巡るWGP(現在はMOTO GP)と、二輪のロードレースは
欧州が本場であり、ややもすると欧州に比べ日本は盛り上がりの点で劣っている印象を受けるが、
実際は日本も負けていないのである。
その要因は、モーターサイクルを養う受け皿やロードレースを養う
ハードの土台が充実していたからに他ならない。
後者は言わずと知れた世界に冠たる4大二輪メーカー、ホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキの存在である。
そして前者は日本初の本格的サーキットである鈴鹿サーキットの存在である。
既に着実にその牙城を築いていた4大二輪メーカーによる日本のバイクシーンではあったが、
サーキットなど、その受け皿となる場はまだまだ満足に提供されていない時代だった。
鈴鹿サーキットの建設
今とは比べ物にならないほど公道における規則や法制が緩かった時代である。
そんな時代に、ホンダの創立者である本田宗一郎が世界に恥じないサーキットとして
鈴鹿サーキットを建設したのである(1962年)。
正に鈴鹿サーキットによって公のモータースポーツシーンは大手を振って活況を呈し始めたと言える。
このようにハードとしての“日本製品”は世界一のレベルではあったものの、
(二輪ロードレースは欧州で生まれたが故に)当時、
ソフトとしての日本出身ライダーはまだまだ新参者で、長らく物の数にも入れてもらえなかったと言える。
そんな中、1977年に片山敬済が日本出身者として初めての
ロードレース世界選手権チャンピオン(WGP)を獲得、一気に話題をさらうことになる。
それ以後の日本人ライダーの代表といえば、平忠彦の名を挙げないわけにはいかないだろう。
彼の輝かしい戦績の中で主なものを挙げると、
全日本ロードレース選手権500ccクラス3年連続チャンピオン(1983~1985年)、
1986年サンマリノGP(250cc)で優勝、1987年ロードレース世界選手権500ccクラスランキング6位、
1990年鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝(パートナーはエディ・ローソン、
バイクはヤマハYZF750)などがある。
正に1970年代後半から1990年代前半までは彼の時代だったと言っても過言ではないだろう。
全日本ロードレース選手権は国内二輪ロードレースの最高峰と言えるものである。
ここでのチャンピオンもしくは上位ランキング者がWGPに参戦したり、
この選手権が鈴鹿8時間耐久ロードレースとリンクしたりしている。
クラスはバイクのレギュレーションによって各種に分けられている。
現在あるクラスや過去に存在したクラスをいくつか挙げてみると、
GP500、GP250、スーパーバイク、JSB1000などがある。
歴代チャンピオン
チャンピオンを獲得した代表的なライダーを挙げてみよう。
小林大(ホンダ)~GP250/’84’85年2年連続チャンピオン、
藤原儀彦(ヤマハ)~GP500/’87’88’89年3年連続チャンピオン、
岡田忠之(ホンダ)~GP250/’89’90’91年3年連続チャンピオン、
伊藤真一(ホンダ)~GP500/’90、スーパーバイク/’98、JSB1000/2005、2006年チャンピオン、
阿部典史(ホンダ)~GP500/’93チャンピオン、宇川徹(ホンダ)~GP250/’93’94チャンピオン、
青木拓磨(ホンダ)スーパーバイク/’95’96チャンピオン等が挙げられる。
前述した鈴鹿8時間耐久ロードレースは1978年から開催され、
二輪ライダーの祭典と呼ぶべく、さながら夏の風物詩となっている。
近年はかつてほど海外のライダーは参戦しなくなったが、
開催日および前日には日本中から二輪フリークが集まり、
ある意味全日本ロードレース選手権以上に活況を呈した二輪ロードレースの催し物と言える。
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