ホンダバイクの誕生
本田技術研究所は終戦の翌年の1946年、現在の浜松市で誕生した。
本田宗一郎が、戦時中にピストンリング製造を主とした東海精機重工業の株式を45万円で
豊田自動織機に売却して資金を調達し生まれた、社員10名程度の小さな会社だった。
「バタバタ」が最初のヒット製品になった。
これは無線機用の2サイクル50ccのエンジンを利用して作られた
自転車用の補助エンジンA型で、最初に売れた製品である。
名前の由来は動作音から来ており、ホンダがその後も製造した自転車用補助エンジンは、
浜松市民からは「ポンポン」と呼ばれて親しまれた。
1949年の夏、始めてオートバイの試作車が完成した。
2サイクル98cc3psのエンジンを搭載したD型だった。
社員達はいわしと漬物でどぶろくを酌み交わし、この本格的オートバイを「ドリームD」と名づけた。
この最初のオートバイは2サイクルを採用していたが、
社の中から変な音がして売れないとクレームが付いた。
4サイクルエンジンへ
本田宗一郎は苦渋の決断で2サイクルエンジンを切り捨て、4サイクルエンジンへの転向を図った。
後に、4サイクルエンジンを搭載したドリーム号が発売され、
永遠のベストセラーである同社の「スーパーカブ」と並ぶ大ヒット商品となった。
1950年に勃発した朝鮮戦争の特需が終わった後は、ホンダは苦境に立たされていた。
国内大雪でバイクが思ったように売れず、輸入機械の支払いに終われ、
倒産の苦境にたたされていた。
ヤマハとホンダの勝負
本田宗一郎は、沈む社員達の気持ちを鼓舞するために、レース参加宣言を行う。
国内では、1955年7月に行われた富士登山レースにホンダは必勝体勢で臨んだ。
楽器業界から出てきた、強豪ヤマハが125ccクラスに出場するからである。
250ccレースでは、ホンダのドリーム号が1.2位を占めたが、
125ccではホンダのベンリィ号はナンバー取得が間に合わず、
ホンダとヤマハの勝負のレースは11月の第1回浅間火山レースに持ち越された。
このレースでホンダは完敗した。
125ccレースではホンダとヤマハとスズキの激しい競争となったが、最終的にはヤマハYA1が
1~4位を独占し、YA1と同じ2サイクルのスズキ・コレダSVが5~7位となった。
YA1の赤い車体が高原を4台連なって先頭を走る様は、赤トンボと形容され後世に語り継がれている。
しかし、ホンダは4年後の浅間火山レースで真骨頂を見せた。
250ccレースで、4気筒のRC160を開発し、この年の1~5位を独占した。
霧の浅間高原に響く初めての音、その4気筒エンジンの唸る音に人々は驚き、
世界に挑むホンダに拍手喝采を送った。
60年代からは、戦後の高度成長にのりホンダは驀進した。
70年代から80年代にかけ、産業界を賑わせたHY戦争、
首位のホンダを二番手のヤマハが猛追し追い落とそうとする経営戦略も、
83年にはヤマハの敗北宣言が出され、バイク市場もその後は低迷への道を歩いた。
浅間のロードレースで口火を切って、好敵手として競い合ったホンダとヤマハは現在、
世界シェア1.2位を占めており、世界のバイクメーカーとして君臨している。
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